21世紀あれこれ雑学TRIVIA

日本史2017/11/10

戦国一の美女?悲運のキリシタン、細川ガラシャのエピソード①

明智光秀の娘で細川忠興の正室、玉姫

細川ガラシャは、1563年に越後(今の新潟県付近)に生まれました。
本名は明智玉(珠)。織田信長を討った戦国武将、明智光秀の娘です。

細川ガラシャは光秀の娘という他に、戦国時代のキリシタン、戦国武将・細川忠興の正室としても知られています。
また、戦国一の美女とも言われていたのだとか。

辞世の句含め、ガラシャのその気高く聡明な生き様は今でも語り継がれています。

今回は、そんな細川ガラシャのエピソードをいくつかご紹介します。
悲運のキリシタン、細川ガラシャはどのような人物だったのでしょうか。

蛇の女房?細川忠興に負けない強い女

細川ガラシャ(玉姫)は15歳のとき、丹後(今の山陰地方)の城主の息子である細川忠興のもとに嫁ぎます。
細川の姫となったガラシャには、以下のようなエピソードが残されています。

●容姿端麗だった
・ガラシャの美貌に見とれた庭師に忠興が怒り、庭師を斬る。
・ミスをしてガラシャにかばわれた奉公人に忠興が嫉妬し、奉公人を斬る。
・他の男の目に触れさせたくないので、忠興がガラシャを軟禁する。

ガラシャの夫、細川忠興は「戦国一短気」と言われるほどクセのある男でした。
そんな忠興に深く愛されていたガラシャ。
彼女の美貌も相まって、忠興はかなりガラシャを束縛していたようです。

●かなり肝が据わっていた
・忠興の嫉妬によって殺された奉公人の首を、忠興がガラシャに投げつけても、ガラシャは顔色ひとつ変えなかった。
・その様子に「お前は蛇か?」と尋ねた忠興に「鬼の夫(忠興)には蛇の妻で十分」と言い返した。

気性の激しい夫に負けるガラシャではありませんでした。
ガラシャの気の強さを物語るエピソードは他にも残されています。
こうした肝の据わった女性だからこそ、忠興はぞっこんだったのかもしれませんね。

夫に隠れてキリシタンへ、細川ガラシャの誕生

1586年に細川家の三男忠利(幼名:光千代)が生まれると、ガラシャは以前から興味のあったカトリックの教えを学ぶようになりました。

そして夫に内緒で洗礼を受け、「ガラシャ(神の恵み)」という洗礼名をもらいます。

「ガラシャ」は洗礼名だったのですね。
当時の修道士は「こんなに明晰かつ果敢な判断ができる日本人女性とは話したことがなかった」とガラシャを評していたそうです。

忠興はガラシャがキリシタンになったことを知って激怒しますが、彼女の死後葬式はキリスト式で行っています。
当時豊臣秀吉による「バテレン追放」で迫害されていたキリシタンになったことは、忠興にとって腹立たしいことだったでしょうか、最後には彼もガラシャの信仰心を認めていたのでしょう。

そんなガラシャは1600年8月25日、壮絶な死を遂げます。

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