21世紀あれこれ雑学TRIVIA

日本史2017/11/10

戦国一の美女?悲運のキリシタン、細川ガラシャのエピソード②

細川ガラシャ、壮絶な死と辞世の句

1600年、細川忠興は上杉討伐のため細川の屋敷を離れます。

時代は関ヶ原の戦いの直前。
武将たちは豊臣秀吉を中心とし徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成を中心とし毛利輝元を総大将とする西軍にわかれ戦っていました。
ガラシャの夫である細川忠興は東軍でした。

1600年8月25日。
忠興の留守を狙い、石田三成率いる西軍が大名の妻を人質にするため、細川の屋敷にやってきました。

この日、ガラシャは壮絶な死を遂げます。

人質になるくらいなら… 

「人質になるくらいなら、自害せよ」と夫に言われていたガラシャ。
人質になることを拒否したガラシャに、三成は兵をあげて細川の屋敷を囲みます。

ガラシャは侍女たちを屋敷から逃がし、自害しました。

正確には、キリスト教で自殺は禁じられていたため、家臣である小笠原秀清に命じて自らを殺させたのです。

その後小笠原秀清は屋敷に爆薬をしかけ、彼自身も自害しました。

ガラシャは、次のような辞世の句を残しています。

「散りぬべき ときを知りてこそ 世の中の 花は花なれ 人も人なれ」
(散りどきを知っているからこそ、花も人も美しい)

彼女の人生観を思わせる、深い句です。

ガラシャの壮絶な死に衝撃を受けた石田三成は、その後大名の妻を人質にとるのをやめました。
また、この出来事が西軍の横暴さを浮き彫りにし、結果的に徳川家康の天下を後押しするひとつの要因となったのです。

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