日本人は昔から「流行に弱く、行列が好きで、秩序を重んじる傾向が強い」と言われてきました。
確かに、食べ物でもファッションでも人間関係でも、周りと同じモノ・意見・体験を共有する行為に安心感を抱く人は少なくありません。
そのせいか、日本人は外国人から「一目で日本人と分かる」などと評されることもしばしば。それがいい意味なのか悪い意味なのかは場合によりますが。

今回のテーマは「同調」。
周りと同じであることに安心したり、自分からすすんで周りに合わせたりという心理の正体とは、いったい何なのでしょう。
そしてその心理の起源とは何だったのか。
日本の集団生活の歴史を振り返りつつ、さまざまな角度から検証してきたいと思います。
同一民族の多い島国ニッポン

日本人の同調傾向の理由の一つに、島国だからという説があります。
ご存知の通り日本は四方を海に囲まれた島国です。
そのため陸続きのヨーロッパや中央アジアなどに比べると、他国との間で人の流出入が少なく、同一民族が全人口の大多数を占めています。
また、永らく鎖国によって諸外国との国交を制限していたことも、民族の同一傾向を強めた要因といえるでしょう。
日本は南北に細長い地形なので、当然北と南では多少文化や言葉に違いはありますが、基本的には同じ言語を使い統一されたルールの下に暮らしています。
これはとても稀なこと。スイスやベルギーのように同じ国でも違う言語を用いる国や、朝鮮半島のように分断により国が分かれても言語が共通という国のほうが、世界的には多いのです。
この「大多数の同一民族と同じ言語」という意思の疎通のしやすい環境は、同調にとって非常に重要なファクター。ここに「相手の気持ちを推し量る」という日本人特有の気回しの起源があるのかもしれません。
農耕という共同体意識

そして日本は、古くから稲作をはじめとした農耕主体の文化を築いてきました。
稲作に欠かせないものといえば共同体と協調性。
人々は近い場所に居を構え、お互いに助け合いながら生活を営んできました。
日本人の心理を研究している識者たちの多くは、どうやらこの稲作の歴史に加え島国という地理的な事情、そして意思の疎通のしやすさに「同調」のルーツがあるのではと唱えています。
つまりこうです。
同じ言語と秩序を持つ者たちが、狭い土地の中で暮らしながら同じ作業を行うとなれば、自然と協調性が育まれるもの。
しかしその中に足並みを乱す者が現れたら、共同体の崩壊は免れません。
生活の破たんに直結する恐れのある存在は、速やかに排他する。それは共同体を維持する上で止むを得ない処置でした。
周囲から浮かないように個を抑える、人並みであるように努める、そういった姿勢を美徳とする。周りと波長を合わせることは、自分を守る術でもあったのです。
その歴史と習慣が今も根強く残り、同調傾向が強まったのでは? という説が多くの人によって語られています。諸説あるにせよ、一理ある、と思わせる話なのは確かです。
出る杭は打たれる?

同調を好むのはなにも日本人ばかりではありません。
たとえば多民族の暮らすフランス。個性を大事にする印象の強いフランスですが、イメージとは裏腹に同調を求める傾向は日本に負けず劣らず。それが原因でいじめや引きこもりといった問題も起きているとか。似たような話は世界中あちこちにあるようです。
逆に、同調なんてお構いなしというお国柄のところもたくさんあります。
国民の大半が移民によって成り立っているアメリカやカナダなどはそのいい例。たくさんの国籍、言語、文化を背景に暮らす彼らにとっては、同調という観念そのものが希薄。どんどん自己主張する代わりに、相手にも主張を求めます。その繰り返しで意志の疎通を図るのです。
もちろんアメリカやカナダにも同調を求める人やコミュニティはありますし、異なる事象を喜んで受け入れるフランス人だっているでしょう。
日本においても、有名人やビジネスで成功している人、周囲を惹きつける魅力にあふれた人には個性的な人が多く見られます。
裏を返せば、個性なくして輝きを得ることはできないのです。
誰もが憧れたり羨んだりする人というのは、反感や孤立を恐れるよりも、自分の気持ちに正直に生きている人。その結果が人気に繋がっているのかもしれません。
個性と多様性

人と違う考え、行動、発言は、否定されたり煙たがられたりと認められにくいもの。
だからといって周りに合わせてばかりいては、自分の個性が出せません。
周囲への気遣いは大切。でもそれと同じくらい自分の主張も大切。自分の個性や主張を周りに受け入れてもらうには、まず自分が周りの声に耳を傾け、理解し、受け入れることです。
その広がりこそが、「多様性」を受け入れる社会への働きかけになるのではないでしょうか。