「奴隷」として信長のもとに連れてこられた弥助

さまざまな武将たちがしのぎを削った戦国時代。
戦国武将の中でも特に大きな勢力を誇った織田信長には、柴田勝家をはじめとした優秀な家臣がたくさんいました。
今回はその中でも特に異才を放つ1人の家臣をご紹介します。
15世紀以降、「イエズス会」の宣教師たちがキリスト教の布教のためにたびたび日本を訪れていました。
1581年天生9年3月27日、イタリア人宣教師アレッサンドロヴァリニャーノが1人の黒人奴隷を連れて信長のもとやってきました。
それが信長と「弥助」の初めての出会いでした。
弥助を気に入った信長は、さっそく家臣に

(当時の絵にも黒人男性は登場している)
初めて黒人を見た信長は、自分と違うその姿に興味津々。
さっそくヴァリニャーノに交渉して弥助を譲り受け、正式な武士として身近に置くことに決めます。
当時の様子を、武将・松平家忠が記した『家忠日記』では次のように表しています。
『上様御ふち候、大うすデウス進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云』
信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル182cm、名は弥助というそうだ。
弥助は26、27歳で、とても力持ちだったそう。
信長は弥助をたいそう気に入り、いずれは城を与えるつもりだったと言われています。
「本能寺の変」後、弥助は…

1582年天正10年6月21日、本能寺の変が起こります。
懸命に戦うものの、信長は死亡。弥助は当時の教会である「南蛮寺」に送られてしまいます。
その後の弥助の消息は、正式な史料には残されていません。
しかし、「沖田畷の戦い」にて大砲役として活躍したという話や、故郷のモザンビークに帰って日本文化を伝えたという話など、その行方については諸説あります。
また、信長の首を持ち帰り、デスマスクとして残すように伝えた、という話も…。
弥助は信長に関する書籍やドラマ、漫画にもたびたび登場しています。
信長と弥助の国を越えた絆は、現代の人々にとってもロマンあふれるものなのでしょう。